昭和四十三年十二月十六日 朝の御理解


御理解第二十七節
「昔から、あの人は正直者じゃ、神仏のような人じゃというても、段々不幸な事が重なって、世間では、どういうものであろうというようなことがあろうが。なにほど、人に悪いことをせぬ正直者でも、人がよいのと神に信心しておかげを受けるのとは別ものぞ。」と

 神に信心しておかげを受けるのとは別物とおっしゃるのは、どういう意味だろうかと思うのです。別物というのはどういう事であろうか。信心をしておる者が、皆んな善人ではない。やはり悪人もおればだらしのない人もある。それでも、やはりおかげを受けておる。
 確かにおかげというのは、人の善いのと悪いのとは別物のようにある。勿論信心は日々の改まりが第一と、どんな悪人でも日々改まっていくという事、ね。どんなに善人でも、いよいよそれで善いというのではない。本心の玉をいよいよ磨きに磨いていくという、その事が信心なのですけれども、おかげを受けるという事は別物と。
 確かにそうですねえ、お取次を頂いてお願いを致しますと、やはりおかげを受けます。お取次を頂いてお願いをする事を知らない人は、だから、その、おかげという事を知らんなりで終っていく人がどの位あるか分かりません。
 そうゆう意味で、確かにこれは信心しておかげを受けるのは別物である。それはお取次の働きというか、お取次のお徳にお縋りする事を知らないという事が、知ると知らないというところに、まあ別物という事にもなるのですけれども、私は一番別物という事は、こうゆう事じゃないかと思うのです。
 御教えに「難はみかげ」と、こう教えて下さる。これは信心がないと言やぁ、信心があっても、だから難を難と受けたんでは、私はこれは別物というおかげになってこないと思う、ね。信心させて頂く者は、事の道理をいろいろ分からせてもらう。第一に天地の事訳です、ね、天地の御恩徳、分からせて頂けば頂く程、天地の中に遍満してござる神様の働き、もう全てが神愛の固まりだ、ね、という事がお話を聞けば聞くほど分かってくるんです。天地の中に起きてくるその事は、例えば氏子が憎いからというものはひとっつもない。只氏子可愛いという一念が様々な、まあ言うなら難儀の形をとって表れておるだけの事である。ですけれども、それを知らず、それを悟らなかったらやはり難儀は難儀なんです。ですから信心させて頂く事によって、信心させて頂かない、やはり信心が、例えばなくても、いかに正直者だと善人だというてもです、物の受け方頂き方というものがですね、ここんところが分からしてもらわずに、只難儀は難儀、苦労は苦労と言うておったんでは、それはたとえ善人であってもおかげに接する事は出来ない。おかげにしていく事は出来ない。
 けれどもそれが、よし悪人であっても事の道理が分からしてもろうて、これは神様が自分のような悪人に善人になれと言うてござる。自分のような不正直な者を、に、神様が正直な者にならなければならないぞと、お気付を下さっておるという風に、もしその悪人が、又不正直者がそうゆう風に、まあ信心によって分からせて頂くとするか、ね、そこから改まりの生活が生れてき、信心の本当の有難い生活が出来る。
 その、例えば困った事難儀な事によって、それが改められていく。そこから例えば不幸を幸福にしてゆくとゆうか、ゆうなら毒薬をも変じて薬にしていけるような働きが生れてくる。ここんところが別物なんです。信心のある者とない者、善人とか善人でないとかという事は関わりはなくて、ね、おかげというのはそこんところの、が別物である。
 ね、ですから信心頂いておっても、改まる事も知らなければ研く事もようしない。事の道理もよう聞こうとせず、頂こうとせずして、は、だからこれは信心のない者も同じ事になってしまう。別物ではない。同じ者になる。そこんところが一番別物と頂けるところじゃなかろうかという風に思うのです。
 「此の方の道は喜びで開けた道じゃから、喜びでは苦労はさせん」と、こうおっしゃるが、ね、喜びの道におるからおかげを頂くのじゃない、喜びの道を頂いていくからおかげになるのである。ね、喜ばせて頂く稽古をするからおかげになるのである。今まではこれは困った事だと思うておった事がです、話を聞けば聞く程、いや、そ、これもおかげであるという事が分かるから、ね、不足を言うておった事が反対にお礼になる。だからおかげを頂くのである。ですからそこんところが出来なかったら、だから信心しておっても同じという事に、別物じゃなくなってくる。全ての事を喜びで受けてゆく。
 「神仏のような人じゃというても、段々不幸な事が重なって世間ではどうゆうものであろうかと」まあ、このへんのところが正直者が、例えば不幸な事じゃなくても正直者が馬鹿を見るといったような事が、このへんの事だろうと、こう思う。
 ね、正直者が馬鹿を見る。世間ではそうゆうような場合、あげな良か人達がどうしてあげな難儀な事が続くじゃろうかと、まあこのへんの言葉で言うなら、言う事があるけれども、ね、だから、確かに、それは良い事が幸せになるという事とは別物だ。この辺も別物である事が分かる。
 成程人に悪いことをせぬ正直者でも、人が良いのと神に信心しておかげを受けるのとは別物じゃと。ですから私共は、この別物であるという事をまず自覚しなければならん。信心させて頂きよる者は、こんな事であってはならぬ。信心のある者と、ここが違わなければならない。どこが違わなければならないか。なかなかそう、信心しとるから善人ばかりじゃない、又信心しとるから完璧という訳にはいけん。信心のない者が信心しとって、あんな事と言われるような事も沢山ある。けれどもここだけは違う。ここだけは信心をしておるから違うというのは、別物であるという事は、ね、言うなら世間で言う難儀という事であっても、その難儀そのものは難儀に感じてもです、その難儀を本当におかげにしていくとゆう事。何か困った事なら困った事、難儀な事なら難儀な事のたんびんにです、あっちは、この言わば繁盛していきなさるとか、ね、困った事の、例えばあるたんびんに、あちらは人間が立派になっていきなさるとか、そこが私は違わなければならない。
 同時に喜びで開けた道じゃからと、こうおっしゃる、その、その事を喜びで受けさせてもらう稽古をさせてもろうて喜びで受けてゆくという事が違う、ね。私共は、この別物であるという事。おかげを受けるのとは別物とおっしゃるけども、信心させて頂いておる者が信心のない者とは違うという事を、ね、信心のある人よりも、ない人よりも、むしろ悪人の場合もありゃ、不正直な場合もある、ね。けども只違うのはです、難に対する処し方とでも申しましょうかねえ、物の見方考え方が別物である、違うのである。それは片一方は悲観的に見る、片一方は楽観的というじゃないでしょうけれども、ね、それをおかげの元、おかげの元として頂く。まあ言はば楽観ですね。まあ信心しよるけんどげんかなろうといったような、そのそういう意味に頂いてはなりませんですね、今私が言うとる楽観というのは。信心しよるから、どうとかなろうと言うのじゃいけません、ね。それをおかげで受けられるところが違うのである。
 今日は、いよいよ報徳祭がここのお広前でございます訳です。昨夜からお湿りがあっておるかなと思ったら雪が降ってるという。まあ霙まじりの、言うならばしるしいお天気である。今迄あんなに温かったのに、暖かかったのに、それこそ小春日和のような日が続いておったのに大祭だというのに寒い、しかも霙混じりのしるしいお天気である。
 成程、親先生初め先生方がお見えて頂くのに、しるしい思いをかけなければならん。お参りをして来る人達も、やはり足元の悪い所をしるしい思いでお参りして来なければならん。天地の事が自由になるとすら仰せられるのにどうした事であろうか。これは神様に何か御無礼が出来たに違いはない。まあ、そう一応思いますねえ。何か神様お気付くださりよるんであろうかと。
 今朝四時の御祈念を奉仕させて頂いておる間に二回程停電がございましたですねえ。はあ今日は御大祭だというのに停電、もうここは何もかにもが電器仕掛けで、ね、スチームも通らんごとになるし、第一便所が水洗便所だから困ってしまう。ね、まあ言うなら泣き面に蜂と言ったような、これは事が続く。困った困ったと、こういう例えば頂き方だったら信心があっても同じだと思うねえ。もうしみじみと自分の心に、もう今日という日にです、このような事があるという事はいよいよ神様も、しら真剣に私共に何かを求め給うという事を分からしてもろうて、求めておられるそこを少しでも分からしてもろうて改めていこうとする姿勢が必要である、ね。そういう引き締まった心にならせて頂く途端に電気がパッと、こうついて、はあおかげ頂いたと、こう思う(笑)。そしたら又消える。はあ、これは急いじゃいかんばいの。まあいっちょ真剣に考えよったら、はあ途端ひとつ分からして頂く事がある。又パァッと電気がつく。これは消えたり付いたりする程、人間のよけい改まられるという感じ。例えて、これは普通の時ならさほどにも考えんけれども、さあ、こと大祭を控えておるから、それを実感するんです、ね。そして例えば、この電気が、こうやって明々と灯るという事がですね、もうどんなに有難い事かという事が分かる。
 日頃は、もうこれが当たり前のように、ね、スイッチ一つ押しゃジャーと、そのお水が出る汚い物も押し流してしまう。ね、それがもう当たり前の事のようになっておるところにです、私は、おかげを受けられない元があると、こう思う。
 今日はね、報徳祭、ね、四神金光様三代金光様に、の、お徳に報いまつらせて頂こうという日である。そうした偉大なるお取次を、の、お働きのおかげで日々このようにおかげを受けておるのに、それを分かっておるようであって実際は実感として有難いものがないなら分かっていないのも同じ事。それを改めて実感させて下さるという事が有難い、ね。降る事も有難いのなら、照る事もやはり有難いのだという事を分かっておるのだけれども、やはりお天気の時には、でなからなければならん時には、お天気の方がいいのですけれども、これは天地の事でいかんともしがたい。ね、だからせめて電気なっとんつかんなら、これで電気迄つかんなら、もういよいよ困る。そこに、例えば、なら電気がついておる。この電気がついておるという事は、もう普通でいうなら当たり前。その当たり前の事が、こうしてある事の中にです、ね、神様のおかげを感じん訳にはいけん。心の底から実感して有難いと思う。その事はお詫びさせてもらうね、天地の事が自由になると仰せられるのに、このようなしるしいお天気になる。その事は、私の信心の不徳としてお詫びをさせて頂く。その上、電気が消えても仕方がないところを、神様は、こうして電気を与えて下さる。ね、そこに有難いものを感じる。はあ今日ばっかりは、もう踏んだり蹴ったりのごたる日じゃった。今日は、もう困った事ばっかりじゃたと言うのではなしに、そこのところからです、どこの隙間からでも有難いものを分からしてもらい、有難い実感を心に頂かせてもらう、そこが別物なんだ、信心のある者とない者の、ね。
 ですから、この今日はひとつ皆さん、信心さして頂いておる者は別物じゃと。おかげを受けるという事は、ね、信心のない、信心があると、それは正直者とか善人とか悪人とかという事とは違う。おかげを受けるとゆう事は別物とおっしゃる、その別物であるという事をまあいろいろ聞いて頂いた訳です。それは確かに、それは何にも分からんでもお取次を願わしてもらう事によって頂けれるおかげ。これも確かに別物。けれども段々信心をさして頂いてお取次を頂いて御教えを頂き御理解を頂かして頂きよりますと、ね、天地の御恩徳が分からしてもらい、道理を段々分からしてもろうて、ね、神様のお心が分かるようになり、そのお心に対し奉って、お心に添うていこういう、そこも又別物。
 そしてこの世の中には神様の、いうなら愛の心だけしかないのだと分からして頂く事になってくる時に、いよいよ別物になってくる。ものの見方というものが考え方というものが、それを皆んな喜びで受けさしてもらい有難いと思うて、頂けれるようになる。いよいよ別物。だから私は、所謂別物という程しのおかげが、所謂言うなら、何と申しましょうかね、別誂えというようなおかげが受けられる。
 私、福岡の川上さんやら久留米の佐田さん達に言うんですよ。ね、子供がなくて御神縁を頂かれたのです、二人とも。片一方は十二年ぶり片一方は六年ぶりですかねえ、佐田さんの方は。おかげを頂いた、皆んな子供達がよう出来る、ね。まあよう出来る出来ないは別としましてですね、ああんたとこの子供は別物じゃと、私。ね、よそんとは出来合い。ああたかたんとは誂え、というようなおかげになってくる訳なんです。ああたかたん子供は神様に誂えた。ね、お願いをして頂いたのである。ね、全てが神様のおかげである事は間違いないけれども、お願いをして頂いたのと、ねえ出来合いとは違う。やっぱ違うはずたいと言うて、まあお話をするんですけれども、私共、頂くおかげの全てがです、私は別誂えと思われるようなおかげを頂いていく為にも、ね、どうでもひとつ別物だと教えて下さる。そこんところが果たして自分の信心は、ね、別物になっておるかどうか。信心のある者もない者も同じような事では、ね、信心のない者が悔やんでおる時に、やっぱり自分共悔やんでおるような事では別物としての値打ちがない。所謂それでは別誂えのおかげは頂かれないという事を頂かにゃならんと思うですね、どうぞ。